Kappo 仙台闊歩

CULTURE 2020.05.18

【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第3回 前代未聞の人事政策 前編

TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智

POINT

初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。

PROFILE

菅野正道(かんのまさみち)

郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。

伊達政宗を支えた家臣は多士済々。政宗が全国有数の大名となったのは、政宗自身に実力があったのは当然であるが、同時に政宗が多くの家臣を有効に活用し、家臣らも政宗の期待に応えてその能力を発揮したからに他ならない。

片倉景綱と伊達成実

政宗の家臣として誰もが思い浮かべるのが、片倉小十郎景綱と伊達五郎成実だろう。

NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」でも、片倉景綱に西郷輝彦、伊達成実に三浦友和という主役級が配されたことからも、二人に対する一般的な評価の高さを知ることができる。
政宗より10歳年上の片倉景綱は、政宗幼少の時から傍に仕え、政宗が伊達家当主となった後は、他の大名との外交担当として活躍し、対外交渉の上では政宗に次ぐNo.2の役割を果たした。また、大森城(福島市)、後には亘理城、白石城という重要城館の城主に任じられ、軍事面でも政宗を支えた。

一方の伊達成実は、勇敢な猛将として知られ、若き政宗が南奥羽に勢力を大きく広げる中での軍事的貢献度はNo.1と言っても良い。

この二人については、よく政宗の側近、あるいは軍師、参謀などと評されることがある。しかし、そうした評価は、二人の真の役割を見誤ったもののようである。
まず片倉景綱。彼の行動を仔細に調べると、若き政宗が南奥羽制覇を目指している時期は、別行動を取っていることが意外に多く、政宗の傍にいる側近や参謀というような役回りではなかったことが明白である。一方で、政宗が豊臣秀吉に会う時や上洛する時、朝鮮出兵時などには、ほぼ政宗と行を共にしているが、これは景綱が現在の外務大臣に相当する役割を果たしていたからに他ならない。

また伊達成実も片倉景綱と同じように、政宗と共に戦うことはあるものの、多くの場合は政宗の命を受けて別行動を取っていた。

伊達成実について興味深いのは、政宗が成実に対して出す手紙である。片倉景綱に宛てた政宗の手紙は、平仮名を多用し、打ち解けた感じであったのに対し、成実宛ての手紙は、良い紙を使って丁寧な文体で記されている。

政宗とは1歳下の従弟であった成実は、政宗と非常に近しい、兄弟のような関係であったと描かれることが多いが、それは大きな誤りである。成実の父である伊達実元は、伊達氏家臣の中で最大の領地を有する重鎮であり、親族中の長老格であった。その実元の跡を継いだ成実に対して、同年代の仲の良い親戚ではなく、礼を失することのできない大事な親戚という扱いで政宗は接したのである。

さらに付け加えれば、片倉景綱・伊達成実共に内政に関与することは一切なかった。二人の役割は、対外的な軍事行動や外交に限られていた。その意味でも二人は、政宗の側近ということはできないのだ。

後編へ続きます。

菅野正道さんはKappo本誌にて、宮城の食材とその歴史をたどった「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。

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