TEXT&PHOTO=菅野正道
初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
城そのものに目を向けると、仙台城本丸が山上に築かれたことも、議論の的になっている。要害堅固な城を拠点にして、天下を狙おうとしたというのである。しかし、武将が居城で戦うという事態は、大抵の場合、敗北直前の状況と言っても過言ではない。天下を狙うとすれば、領地の外で戦うべきであって、居城を堅固にするのは天下を狙う者がすべき行動ではないのである。
そもそも、仙台城クラスの規模で対応できるのは、1、2万人程度の敵兵であって、数万人から場合によっては10万人を超すような天下人の軍勢を支える構造に仙台城はなっていないのである。仙台城の築城に着手した当時、政宗は一二〇万石を領していた上杉景勝と対峙していた。謙信以来、日本最強と評される軍勢を要した上杉氏との合戦を意識して政宗は要害の地を選んだのである。
仙台城の築城が一段落したころ、上杉氏も徳川家康に屈し、まだ豊臣氏は残っていたが天下の大勢はほぼ徳川氏の手中に帰していた。そうしたなかで政宗は仙台城の改造に着手し、本丸の中心施設として、大広間を造営した。日本有数の規模を誇る大手門も大広間と同じ時期に造られた可能性が高い。
仙台城に天守が造営されなかったことも、徳川への遠慮と言われるが、これは全くの俗説である。関ヶ原合戦で破れて一二〇万石から三〇万石に大減封され、徳川幕府に思いっきり遠慮しなければならない毛利氏が、居城として新造した萩城(山口県)に五層の立派な天守を建てていることからも、全く的を射ていないことが明白である。
実は天守は実戦にはほとんど役立たないもので、その最大の意味は城主の権力を可視化するところにある。したがって、天守の造営に熱心なのは天下人や成り上がった大大名、そして中小の大名たちである。実力ある外様大名のなかには、たとえば加賀百万石の前田氏や薩摩七〇万石の島津氏のように天守を立てないものが少なくない。
菅野正道さんはKappo本誌にて「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
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