TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地敦智
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。
416年前、すなわち慶長6(1601)年4月、伊達政宗は新しい居城として築いていた青葉山の仙台城に入った。仙台城は、翌年に第一次工事が終わったが、もっとも重要な建造物である本丸大広間はそれから8年後の慶長15年に落成するなど、整備は断続的に継続された。
この政宗の居城・仙台城は、江戸時代の新規築城にもかかわらず、標高100m以上の山上に造営されたことや、一般に近世城郭のシンボルとされる天守が造られなかったことなどから、政宗がこの城にこめた思いについてはさまざまな憶測を呼んでいる。
ある人は「天下への野望を秘めた城」と言うし、一方では「徳川幕府への遠慮」があった城と言われることもある。果たしてこの城は、近世城郭としてどのように位置づけることが出来、そしてそれは政宗のどのような意識の下に築かれたのであろうか?
まず、なぜ政宗は仙台平野の一角に位置する青葉山に城を築き、その足下に新たな城下町をつくったのか、その理由を考えたい。
一説に、政宗は石巻に城を築きたかったが、徳川家康から築城の許可を得る際に、第一候補は却下されるおそれがあるので、当て馬として青葉山を第一候補としたところ、そのまま許可された、というものがある。しかし、政宗が石巻に築城しようとしたことを裏付ける資料は、全く存在しない。
江戸時代、石巻は仙台藩領最大の港として栄えるが、それは政宗・忠宗期の整備によるもので、当時その港湾機能は決定的なものではなかった。また、北上川水系を介しての水運には便利な地ではあったが、陸上交通を考えると、著しく東に偏し、例えば古代以来の幹線道路である東山道(奥大道)のルートからは完全に離れている。
一歩で仙台平野は、南方から内陸沿い、そして海岸沿いに来た道が集まり、また北方からも内陸の道と海沿いの道が集まる陸上交通の要所であった。また、閖上や塩竈の港も古くから機能しており、水運と陸上交通の結節も十分な地理的環境にあった。交通の要という点で、仙台平野は石巻よりも数段上の機能を有し、新しい領国の拠点を政宗自身の手で選択する際、仙台平野の一角にそれを求めるのは、必然であったと言えよう。
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菅野正道さんはKappo本誌にて「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
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