TEXT&PHOTO=菅野正道
初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
政宗が本丸に造営した大広間は、さまざまな儀式が行われる、仙台藩にとって最も重要な御殿建築だった。それは決して天守の代用などというものではなく、仙台城を藩の中心たらしめる、そして政宗の権威を最も具現化する役割を担わされた建物だった。
その大広間を、政宗は一時代古い、室町時代の伝統的な間取りで建てた。江戸時代の御殿は、機能ごとに建物を分けて造り、それを幾つも並べて接続させるのが普通であったが、仙台城大広間のように大きな建物に幾つかの機能をまとめて収容するのが室町時代の伝統的な御殿であった。
政宗は、このオールドスタイルの後点を、きらびやかな、当時流行の装飾で飾った。ともすれば、斬新さ、奇抜さを好んだとされる政宗であるが、実は彼は幼少時からさまざまな文化的素養を身に付けさせられた、当代一流の武家文化人であった。政宗の真骨頂は、伝統性と革新性の両方を兼ね備えたことにあると言っても良い。それは、仙台城下において、伝統性を色濃く持つ国分寺薬師堂と、桃山様式の華麗な大崎八幡宮を同時に造営したことにも確認することができる。
政宗は、城というものをよく理解していたのであろう。だからこそ、築城時に上杉氏との合戦の可能性を考えて要害の地を選び、その危険性が去ると、軍事要塞としての機能よりも政治性を重視した整備に方向転換した。天守を設けなかったのは、なんでもない、その必要性がなかったからである。
本丸大広間には、上々段の間というものが設けられていた。これも、上段の間に藩主が座し、その上位者、すなわち天皇を迎えるためで政宗の野望を秘めたものと言われる。
しかし、全国的に見ると、西日本の寺社には上々段を有する建物が少なからずあり、また城郭の御殿では、広島城や三原城(広島県)などでも上々段が設けられていた。これらの上々段の幾つかは、実際に天皇を迎えることを目的としたかもしれないが、多くは室町御殿の最も格式の高いコピーとして造られたものであろう。政宗が上々段を設けたのも、天下への野望ではなく、室町文化への限りない憧憬と考えるべきではないだろうか。
菅野正道さんはKappo本誌にて「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
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