TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智
初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
仙台市の市街地は、言うまでもなく伊達政宗が作った城下町が起源となっている。江戸時代、日本でも有数の都市に発展した仙台であるが、現在の街並みには城下町の面影を感じることはほとんどできない。かつて街の中をくまなく流れていた四ツ谷用水の流れも、広大な武家屋敷とそこに植えられた多くの木々に由来する「杜の都」の原風景も、軒を連ねた商人たちの町屋もあらかた姿を消した。しかし、実は街のそこかしこに城下町の痕跡が残り、そこには政宗の街づくりに込めた思いが、今でも息づいているのである。
城下町の一般的な形状は同心円構造と言われる。城を中心に、周囲に重臣屋敷、その外側に中級家臣の屋敷を配し、足軽などの下級家臣や町人の屋敷を外縁部に配するというものだ。
しかし、仙台の場合は、城が山際に設けられたため、必然的に同心円構造をとることができない。城の近くの川内や片平丁に重臣の屋敷が配され、その外側の東一番丁から東六番丁、北一番丁から北六番丁などに中級家臣の武家屋敷街があり、城下の外縁部の堤町や二十人町・鉄砲町・弓ノ町・三百人町などに足軽居住空間が設けられている。この様子は、同心円構造の中心から扇状に一部を切り取った構造と見ることも可能ではある。
だが、政宗が作った当初の城下町の構造は、どうも単純な同心円的とは言えない様子が見られる。仙台城周囲の重臣屋敷はともかく、その外側は中級家臣の屋敷ではなく、実は町人たちの居住空間が設けられていたのである。現在の西公園付近は「元柳町」といい、城下町建設当時は町人町の柳町があった場所である。また、仙台高等裁判所の東側は、かつて「本荒町」という町名であったが、ここも江戸時代初期に町人町の一つである荒町が置かれた場所であった。「東○番丁」「北○番丁」といった中級家臣の屋敷よりも城に近い場所に配されたこうした町人町の中核をなしていたのは、米沢城下から岩出山、そして仙台へと政宗とともに移ってきた「御譜代町」と称された、町人たちの町であった。
その結果、町人たちが住む町屋敷は、城下町が展開する河岸段丘上のちょうど中心部に配されたことになる。その場所は、繰り返しになるが、中級家臣の屋敷よりも仙台城に近い場所であり、また地盤的にも堅固で安定した土地であった。この配置は、政宗が考えた街づくりの重要な柱の一つが、商工業の重視にあったことを示しているのだ。
後編へ続きます。
菅野正道さんはKappo本誌にて「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
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