写真=池上勇人 TEXT=川元茂(編集部)
永年さんがマーブル・ペーパーに出会ったのは大学生の頃。コーネル付きの背革装で、表紙にスパニッシュ・マーブルが張ってある政治学の原書を神田の古書店で手に入れた。その時はただ「きれい」と思っただけだったそうだが、再び出会いがあった。大学卒業後、1971年から4年半ほど英国に留学。愛書家だった永年さんは、ロンドンを拠点に、大英博物館、ヴィクトリア・アルバート博物館、パリ国立博物館、デン・ハーグ国立図書館、スウェーデン図書館などを訪れ、多くの稀覯書(きこうしょ)を間近に見る。次第にマーブル・ペーパーで製本装幀された美しい本に興味を持つようになったという。
「マーブル・ペーパーが実際にどうやって作られるか知りたくなって、ヨーロッパ各地の制作者たちを訪ねました。その一人にティニがいました」
永年さんとティニさんは意気投合し、のちに結婚。永年さんはマーブル・ペーパーの制作方法を学びながら、ニューヨーク公立図書館、メトロポリタン美術館などで貴重なコレクションを見学、さらに17~20世紀に制作された貴重なマーブル・ペーパーの蒐集も行った。その数は200種類、5000枚を超える。
マーブル・ペーパーとは、絵具を水面に垂らしてできた模様を、紙に写し取るヨーロッパの伝統的な装飾紙のことで、日本に古くから伝わる墨流しの技法が源流だと言われている。15~16世紀にはインドやペルシャの細密画と、カリグラフィーと言われる手書きの美しい文字が一体となった本の頁の装飾輪郭として使われた記録が残る。中近東で発達したマーブリング芸術(染紙技術)はヴェネチアの商人たちによってヨーロッパに伝えられ、17世紀にはフランスやドイツ、オランダで技法が発達、美しいマーブル・ペーパーが輸出されるようになる。その後、ドイツでは多様なマーブル・ペーパーがさまざまな本の装飾に使われるようになり、現在ではイタリアを中心に技術が伝承されている。
一方、ティニさんはドイツ・キールで、美術大学教授の父とブラームス家系の母の間に生まれた。西ドイツの美術学校を卒業後、パリのエコール・エスティエンヌ美術大学のモンドーンジ教授に美術と製本装幀技術を学ぶ。1963年からノーベル賞の賞状制作にも携わり、1965年に物理学賞を受賞した朝永振一郎氏、1968年に文学賞を受賞した川端康成氏の賞状をデザインしたのもティニさんだ。そして1971年、スイスのアスコナで開催された世界でもっとも権威のあるポール・ボネ賞コンクールで最優秀賞を受賞し、世界製本装幀芸術界の第一人者の地位を築く。1975年には製本装幀を芸術にまで高めた功績でスウェーデン政府から芸術家マイスターの称号を授与。美術館や博物館、蒐集家から依頼された愛蔵本や英国のエリザベス女王、スウェーデンのグスタフ国王をはじめとした各国王室の公式文書を多数制作。パリ、ボストン、東京、大阪、上海、青島など、世界40都市以上で展覧会を開催するなど華麗な経歴を持つ。
この製本装幀は、半年から1年以上の制作期間をかけてわずか一冊の本をつくるわけだから、本をアートの領域に高めるプロセスでもある。約50に及ぶ工程を行うのはティニさんたった一人。本の内容を理解し、心に浮かんだ情景や感情をイメージして表紙の構図や色彩をデザインする。より長く美しく保存するために、糊や膠、綴じ糸、革、布、紙など、何百年も保存可能な良質な材料を使う。数百年にわたって培われてきたヨーロッパの伝統技術に新しい技法を交え、アートと匠の技が融合した美術工芸品と言えるだろう。
「これまで25年間で約1000冊の革表紙の製本装幀本をつくってきました。表紙のデザインのアイディアはフィーリングかな。イメージが空から降ってくる感じです。もっとも好きな作品は、と問われるのがとても難しい。言ってみれば最新の作品が常にフェイバリットです」とティニさん。
二人が新たにつくるギャラリースペースは、かつて材木倉庫として使われたが、東日本大震災で被災した建物。海外のキリスト系支援団体の宿泊所として延べ500人以上が寝泊まりし、2年間で民家約500戸を再生した活動拠点だ。その後2012年からはキリスト教会の礼拝所が設立され、音楽を通じて心の復興を願った。
「夏に向けて、この建物をリニューアルし、『宮城芸術文化館』をオープンさせる予定です。美術、音楽、文化などあらゆる活動を地域の皆さんと一緒にすることができれば」と永年さんは抱負を語ってくれた。世界の第一線で活躍してきた二人が見つけた安住の地で開く新しいアートの花々は、今年どんな色を咲かせるのだろうか、楽しみに待ちたい。