TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智
初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
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伊達政宗率いる伊達軍団は精強であったとの印象が強く持たれている。それは、政宗が家督相続数年にして領土を2倍以上に拡大したことが大きく影響しているようだ。しかし、その過程を見ると、実は政宗率いる伊達軍団は苦戦を重ねていたことが判明する。
例えば、政宗が家督を継いで最初に起こした軍事行動は、米沢から南へ兵を向け、檜原峠越えで会津を攻めようとした関柴・檜原合戦であるが、政宗自身で兵を率いて柏木城(福島県北塩原村)などを攻撃したものの堅い守りに阻まれて攻城を断念。檜原に城を築いて橋頭堡としたが、以後数年にわたってこの方面からの攻勢はかけられなかった。
また先ほど紹介した大崎攻めは政宗自身が采配を振るったわけではなかったが、見事に敗北し、摺上原の戦いの後に南会津や西会津を制圧しようとした際には、山内氏の水久保城(福島県只見町)や河原田氏の久川城(福島県南会津町)を圧倒的多数の軍勢で攻めたが、落とすことができなかった。
その後を見ても、関ヶ原の戦いと連動した上杉氏との軍事衝突では、大挙して旧領であった伊達郡・信夫郡へ侵攻したものの、頑強な反撃に遭い一日で撤退しているし、大坂夏の陣では戦力比で圧倒して大坂方の後藤又兵衛や薄田隼人を討ち取ったが、「日本一の兵」と賞された真田信繁(幸村)との戦いでは、公平に見れば敗戦であった。
このように、政宗が活発に軍事行動を行い、南奥羽を制圧したとされる米沢時代においても、伊達軍団は「連戦連勝」というわけではなく、むしろ苦戦の連続であったという方が実態に合っている。政宗率いる伊達軍団は決して強い兵であったとは評価できず、政宗が急速に版図を拡大したのは、その軍事力よりも、外交力に拠るところが大きいというのが
事実に即しているのである。
豊臣秀吉、徳川家康といった天下人は、野望を持ち続ける伊達政宗を警戒したという評が一般的である。しかし、同時代の資料や晩年の政宗の述懐では、天下人と政宗の人間関係にはまったく違う様相が見えてくる。
まず、秀吉についてであるが、端的に言えば秀吉は政宗を好んでいたようだし、政宗も秀吉に対してなみなみならぬ親近感を抱いていた。母に宛てて書いた手紙で政宗は「秀吉の厚遇は、父親のようだ」と書いている。また秀吉から拝領した太刀「 拡大した所領を大幅に削減され、父祖伝来の伊達郡や米沢を取り上げられて岩出山への移封を命じられるなど、政宗は豊臣政権からは相当に過酷な扱いを受けている。しかし、そうした措置への政宗の恨みは、豊臣政権を切り盛りしていた奉行たち、とくに政宗と豊臣政権の連絡役になっていた浅野長政らに向けられ、秀吉に対しては悪感情ではなく、むしろ親愛の念を抱き続けたようである。
徳川家康に対しても同様であった。秀吉没後まもなく、政宗は家康に対してその指揮下に入ることを明確にした誓約書を提出している。実はこれだけ早く旗色を鮮明にした大名は他にいなかったと言ってよい。そうした政宗に対して、家康も大きな信頼感を持っていたようである。息子忠輝と政宗長女五郎八姫の縁組だけでなく、政宗嫡子忠宗と家康息女の婚約が結ばれたこともその表れである。
家康の政宗に対する信頼感は、大坂の陣前の幕府の城郭政策にも明確に表れている。徳川幕府は、豊臣氏に対しては大坂を囲むように、そして東海道の道沿いに多くの城を築いたが、奥州に対しては城郭を整備するなどの警戒体制を採らなかった。関ヶ原の戦いによって領土を大きく削減された上杉氏や佐竹氏といった危険分子がいたにもかかわらずである。それはとりもなおさず、伊達政宗という有力な同盟者が厳然と控えており、万が一の時には政宗が上杉や佐竹を制圧してくれるだろうという信頼感に基づくものであった。
政宗もそうした信頼感に応える行動を取っていたからこそ、ついに62万石という広大な領土を維持することができた。
政宗の「野望」は全国を武力で統一するというものではなく、領国を繁栄させることにあった。その現れが、仙台城や城下町の姿にも反映されていたことは、以前の号で紹介してきたとおりである。
菅野正道さんはKappo本誌にて、宮城の食材とその歴史をたどった「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
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