TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
若くして南奥羽にその勇名をとどろかせ、「最後の戦国武将」とも称される伊達政宗。晩年まで天下に野望を抱いていたとされ、その力の源には精強な伊達軍団が控えていたとされる。しかし…。
天正一三(一五八五)年、伊達政宗は安達郡東部にある小手森城(福島県二本松市)を攻め落とし、城兵らを皆殺しにした。完全勝利の昂揚感のなか、政宗は母の兄である最上義光に戦いの様子を手紙で書き送った。そのなかで政宗は「この上は、須賀川まで攻め込み、関東が自分の手中に入るのもたやすいことだ」と述べている。
また政宗は、晩年に「一度天下に旗をあげずして口惜しき次第也」と側近であった木村可親に述懐している(『木村宇右衛門覚書』)。このほかにも、幾つかの軍記物や逸話集なども、政宗が常に天下を狙っていたというエピソードを記している。
こうしたことから、政宗については、晩年まで天下に野望を抱いていた…というイメージが強くついてまわることになった。政宗肖像の代表とされる仙台城本丸跡に立つ甲冑姿のいわゆる「騎馬像」や、瑞巌寺にある甲冑姿の木像は、天下を狙い続けた武将・伊達政宗のイメージと合致し、その印象を確たるものにしたと言ってよいだろう。
しかし、米沢に本拠を置いていた時代、政宗の軍事行動をつぶさに見ていくと、「本当に政宗は関東、さらには天下を狙ったのだろうか?」と疑問がわいてくる。
小手森城を攻め落とした後、政宗は有名な人取橋の戦いで大苦戦し、父の仇を討とうと攻めた二本松城も半年近い包囲戦でも攻落できず、ようやく交渉をもって降伏させるに至った。その後、積極的な軍事行動を起こさな
かった約一年半の小康状態を経て政宗が起こした軍事行動は、関東とは正反対の北方、大崎攻めであった。事実上の敗北に終わったこの大崎攻めの後、政宗は約一年間、断続的に仙道(現在の福島県中通り地方)で常陸の戦国大名・佐竹氏と会津の戦国大名・蘆名氏を基幹とした連合軍との戦いに明け暮れる。しかし、これとても、政宗が積極的に南進しようとしての軍事行動ではなく、連合軍の反政宗的行動に対応して軍を動かさざるを得なかった、というのが実情である。
会津の蘆名氏を撃破した摺上原の戦い後約半年の間に政宗は仙道のほとんどを制圧するに至ったが、これは一種のドミノ倒し状態のようなもので、その先に関東進出の構想があった形跡は確認できない。政宗が関東進出を目論んでいたという事実はなさそうである。
後編へ続きます。
菅野正道さんはKappo本誌にて、宮城の食材とその歴史をたどった「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
お求めはこちら