生活になくてはならない必需品ではないけれど、
持っているとちょぴり暮らしが豊かになる。
そんな大人の趣味・趣向を広げてくれる
愛すべきモノを紹介するのがこの連載。
探す楽しみ、手に入れる喜び、そして生活に何を
もたらすか、ひとつひとつのアイテムに眠るモノ語りを
丁寧に紡ぎます。どうぞお付き合いください。
東北福祉大学の仙台駅東口キャンパスにある芹沢銈介美術工芸館が、まだ国見キャンパスにあった時のお話です。芹沢先生をはじめ日本の民藝運動に深く精通する思想家や作家たちに興味を抱き、各地の民藝館へ足を運ぶのにハマっていた時期がありまして、ずっと気になっていた芹沢銈介美術工芸館に初めて足を運んだのは約6年前のこと。ちょうどその時に開催されていたのは芹沢先生が収集されていた東北の民芸品を紹介する企画展でした。展示室に入るとそうそうに眼を奪われる作品が置かれていたんです。それは黒と白の釉薬のコントラストがなんとも美しい大きな水瓶。作品の横に置かれた説明を読んでみると、仙台で300年続く窯元である『堤焼 乾馬窯』の作品であることが記されていました。そしてその記述には「今なお仙台で制作を続けている」とも。展示を鑑賞後、学芸員さんに『堤焼』の窯元について聞いてみると、今は泉区の水の森公園近くに窯を構え、作陶と販売をしているという情報を聞き、その足で窯元へと向かいました。
水の森公園キャンプ場に隣接する場所に建つ『乾馬窯』は趣のある民家で、入口に掲げられた看板を頼りに恐る恐る足を踏み入れる。なにせアポもなしに勢いで訪問したもので、ご迷惑ではなかろうかと思いながら作品が並ぶ家屋にいた方に声を掛けると、快く迎えてくれたのは五代目「乾馬」を襲名した嘉久さんと共に窯を切り盛りする弟の和馬さん。「どうぞゆっくり見ていってください」と畳の間に通されると、そこには芹沢銈介美術工芸館で見た水瓶のほかに、茶碗や皿、酒器や花器など日用使いできる作品が販売されていました。「じつは芹沢銈介先生の展示で堤焼を拝見して、気になって伺ったんです」と話すと、「もしお時間に余裕があれば」とありがたいことに、300年に渡る歴史から現在の作陶についてまで丁寧に解説いただきました。
堤焼の開窯は1688年~1704年(江戸・元禄年間)ごろと伝えられています。この名はかつて堤町(仙台城下の北端)に窯場があったことが由来。当初は茶道に通じた仙台藩主の器などを作る御用窯としてはじまり、のちに現在も堤窯の代名詞となっている水瓶や鉢など、当時の庶民の生活雑器を生産。最盛期には30軒ほど窯元があったそうですが、現在では堤焼の窯元は「乾馬窯」が唯一残っているそうです。そんな堤焼の魅力といえば、なんといっても地元でとれた土と釉薬から作られているところ。お話を聞くと、その作陶で使われる土は台原や北仙台といった、身近な土地から採集したもの。粗目でほどよい粘度を持つこの土は、水瓶のような大物を成形して焼き上げるのに適しているらしいのです。僕らが生活する街の土で作られている陶芸品というだけでも愛着が持てますが、個人的にこの堤焼にもっとも魅せられたのは、アブストラクトな釉薬使いです。黒と白の釉薬を豪快に流し掛けるこの堤焼の代表的な技法は「海鼠釉」(なまこゆう)と呼ばれています。最初にその柄を見た時は、釉薬をかけ流して自然に垂れて柄を形成するのかと思っていましたが、話を聞くと茶碗や湯飲み、花器などの小物は、作品を逆さまにして一片を釉薬に浸し、もう一片には柄杓で弧を描くようにパシャっと釉薬をかけているそうです。湯飲みなどをよく見てみると飲み口に向かって釉薬が垂れていて、この逆さに釉薬をかけ流すというのも実は珍しい堤焼ならではの技法なんです。
そんな海鼠釉の存在感のある柄が見て楽しめると一目惚れして購入したのが徳利でした。作品としては徳利なんですけど、僕は一輪挿しとして使っています。ひとつだけテーブルにぽつんと置いても存在感があって絵になり、モノトーンなのでどんな色の花やグリーンを挿してもよく映えて、インテリアのアクセントとして活躍してくれます。この白黒の海鼠釉のほかにも、緑や青、赤茶、鉄釉系など実はいろいろなバリエーションがあるんです。現五代目乾馬の嘉久さんと弟の和馬さん、そして甥である峻さん、それぞれが伝統的な堤焼の技法をしっかり引き継ぎながら、様々な釉薬の調合などにも挑戦しており、新しい作風を生み出しているので、今後どんな作品に出会えるのかも楽しみのひとつ。300年以上続く歴史ある窯元でありながら驕ることなく、この地の暮らしに根付いた陶器を粛々と作り続けている『堤焼 乾馬窯』は、仙台の民藝を語る上で欠かせない存在なのです。ぜひとも工房を訪ねてその歴史と作品に触れてみてください。
堤焼 乾馬窯の徳利 5,000円
写真・文_鮫島雄一(編集部)