Kappo 仙台闊歩

SPECIAL 2021.03.11

震災遺構をあるく① 山元町震災遺構 中浜小学校 「命を守り抜いた校舎が伝える  あの日のこと、未来への備え」

取材・文=三浦奈々依
写真=池上勇人

POINT

『Kappo 仙台闊歩』は、東日本大震災以来、被災地の復旧・復興を取材し続けてきました。最新号でも、再起した飲食店や震災遺構、地元建設業の取り組み、三陸鉄道の復興、南三陸町の食文化などを紹介しています。本稿は『Kappo 仙台闊歩』2021年3月号 vol.110「岩手・宮城・福島 10年目の姿」より転載しています。

昭和39(1964)年の開校以来、地域と共に歩み、愛されてきた中浜小学校は、震災後に内陸部にある坂元小学校との併設を経て、平成25(2013)年3月に閉校となり、現在は震災遺構として公開されている。遺構保存の手法や見学者が時の流れを感じながら震災について考える「日時計モニュメント」等を含めた統合的なデザインが高く評価され、2020年度の「グッドデザイン賞ベスト100」「グッドフォーカス賞」をダブル受賞した。

中浜小学校で教諭を務めていた岩﨑信さんとともに

震災当時、中浜小学校で教諭を務めていた岩﨑信さん。現在は退職し、震災遺構中浜小学校で見学ガイドを行っている。岩﨑さんの説明を聞き、問いかけられながら校舎を歩くうち、あの日の出来事をリアルに感じ、さまざまな気づきや思いが芽生えた。

「あの日以来、はじめて学校を訪れたという子どもたちもいるんですよ」と話す元教諭の岩﨑信さんの言葉に、大震災の爪痕を色濃く残した校舎が未来に対する備え、意識の大切さを伝承する震災遺構であると同時に、児童や卒業生、保護者、近隣に暮らしていた皆さんにとっての思い出の場所だったと気づく。おしゃべりをしながらみんなで給食を食べて、歌を歌って、勉強をした幸せな記憶が詰まった校舎。

押し寄せた津波はあっという間に子どもたちから学校の日常風景を奪った。堆積する大量の瓦礫を前に、波打ちながら津波が校舎を通り抜けていったという説明を聞き、津波のあまりの凄まじさに身がすくんだ。

学校のシンボルであった時計台は、津波の威力や向きを知る手がかりとなる。津波襲来の瞬間、防潮林から鳥が一斉に飛び立ち、松の木がバキバキと音を立てドミノ倒しになっていくのが見えたという。水の威力だけでなく、流木や大量の瓦礫によって根元から押し倒されてしまったのだろう。

中庭に面した1階の窓ガラスやガラスブロックはほとんどが破壊された。一方、2階の窓ガラスは破壊を免れたものが多かったという。やわらかな光を放つステンドグラスも1枚をのぞいて健在、当時のままに残されている。

学年の異なる子どもたちが集まり、集会や給食などに使用された多目的ホール。壁に木組みでヨットが描かれた吹き抜けのホールは、校舎の中でも特徴的な場所だった。異なる高さで破壊された窓ガラスの形跡から、津波が波打ちながらこの場所を通り抜けていったことがわかる。

垂直避難の決断

今から10年前の3月11日。1、2年生の子どもたちは授業が終わり、上級生と一緒に下校するため校庭で遊んで待っていたという。14時46分。かつて経験したことのない激しい揺れが小学校を襲った。職員室の床に落ちたリモコンをなんとか探し出しテレビのスイッチを入れると、10分後に高さ約6mの津波が到達するという大津波警報が発表された。

中浜小学校では津波の浸水域にあるという危機感を持ち、日頃から防災についての話し合いが重ねられ、避難訓練が行われていた。3月9日に発生した地震を受け、大震災前日にも避難方法と避難先は津波到達予想時間で判断するといった避難マニュアルの再確認が行われていたのだという。最短の指定避難場所まで子どもの足で歩いて20分。混乱した状況の中、垂直避難しかないと校長が判断を下し、校舎にとどまるという重い決断がなされた。

階段をのぼり、屋上へ

階段をのぼり避難した子どもたちの不安は計り知れない。あの日、津波が屋上よりも高かったらどこにも逃げ場はないと、校長は児童の命を守るという責任の重さを感じていたという。「もし、あなたが校長だったら?」という問いかけに真剣に考えた。

岩﨑さんの案内で2階の資料室へ。屋上へ続く階段はこの部屋の中にあった。のぼったら最後、生き延びて降りるしかないと覚悟を決めた階段は思った以上に狭く急だ。

屋上から海岸方面を望む。海が近い。

あの日、校舎よりはるかに高い第3波と第4波が見えた時、校長は思わず「崩れてくれ」と心の中で祈った。それらの波は引き潮とぶつかり、沖合で崩れ落ち、奇跡的に屋上への到達を免れたという。過去の水害経験を踏まえ、2mかさ上げされた敷地が結果、ぎりぎりのところで命を守ることにつながった。いざという時のために準備していた非常用毛布が発見されると、防災頭巾と共に氷点下まで気温が下がった屋根裏倉庫で子どもたちの体を温めた。また、海の方角だけが見える構造が幸いし、子どもたちは過酷な光景を目にすることはなかったという。「校舎に命を救われました」と、岩﨑さん。

コンクリートの床、断熱材のない屋根と壁の屋根裏倉庫で段ボールなどを床に敷き、学芸会の衣装を毛布代わりにするなどして、寒さ対策がとられた。「朝までがんばろう。あたたかい朝日は必ず昇るから」という校長の言葉に、その場にいた全員がしっかりと耳を傾けていたという。

懐中電灯の明かりの下、一枚の毛布をふたりで分け合った子どもたち。絶えず続く余震と寒さに耐えながら、互いに励まし合い、不安な一夜が明けた。

翌朝、上空を飛来する自衛隊のヘリコプターに子どもたちが手を振り、90人全員が無事救助されたのである。

「どうしてもという場合は垂直避難もあると、前もって相談をしていました。あの日、校長が垂直避難を決めた時、どうすべきかということを話さずとも職員が皆、理解していたことも大きいと思います」と、岩﨑さんは話す。だが、その判断が果たして本当に正しかったのか未だ考え続けているが、わからないと正直な思いも口にした。

いちばん被害の少なかったという音楽室に足を踏み入れた瞬間、まるで震災前に時間が遡った気がした。黒板にうっすらと残るチョークの文字。当時の在校児童全員で制作された「ありがとう 中浜小学校」の横断幕を見て、過酷な経験を乗り越えた子どもたちの健やかな未来を願った。

「住んでいる場所により遭遇する災害は異なります。あの日、きっと誰もが最善の努力をしようと行動していたでしょう。避難の選択が正しかったということではなく、それぞれの場所での課題、今の自分に出来ることはなんだろうと、日頃から防災について考えることが大切だと思うのです。中浜小学校がその機会を与える場所になってくれたらと思います」

90人全員の命を守ったいくつもの偶然の重なり。それらは、あくまで日頃の備えの積み重ねの上にもたらされたものなのだろう。校舎の中で一番被害の少なかった音楽室には、当時の在校児童全員で制作された虹の横断幕が掲げられている。この日、校舎の上空に本物の虹が架かっていた。

山元町震災遺構 中浜小学校

住所
亘理郡山元町坂元字久根22-2
電話
0223-23-1171
時間
9:30~16:30(入館~16:00)
休日
月曜(祝日の場合、翌日)
WEB
https://www.town.yamamoto.miyagi.jp/soshiki/20/8051.html
備考
常磐自動車道山元南スマートICから約10分。料金/一般400円、高校生300円、小・中学生200円(団体割引あり)※語り部ガイド同行での見学を希望の方は  町のHPから要事前予約。

オンライン書店でも購入できます。

アマゾン
マチモール

BACK TO LIST
【神様散歩 web版/仙台市秋保・慈眼寺】 大阿闍梨・塩沼亮潤さんに学ぶ、幸せな人生の歩き方前の記事へ
震災遺構をあるく② 気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館「津波の恐ろしさをリアルに伝える 震災遺構・気仙沼向洋高校旧校舎」次の記事へ