取材・文=三浦奈々依
写真=池上勇人
「あの日以来、はじめて学校を訪れたという子どもたちもいるんですよ」と話す元教諭の岩﨑信さんの言葉に、大震災の爪痕を色濃く残した校舎が未来に対する備え、意識の大切さを伝承する震災遺構であると同時に、児童や卒業生、保護者、近隣に暮らしていた皆さんにとっての思い出の場所だったと気づく。おしゃべりをしながらみんなで給食を食べて、歌を歌って、勉強をした幸せな記憶が詰まった校舎。
押し寄せた津波はあっという間に子どもたちから学校の日常風景を奪った。堆積する大量の瓦礫を前に、波打ちながら津波が校舎を通り抜けていったという説明を聞き、津波のあまりの凄まじさに身がすくんだ。
今から10年前の3月11日。1、2年生の子どもたちは授業が終わり、上級生と一緒に下校するため校庭で遊んで待っていたという。14時46分。かつて経験したことのない激しい揺れが小学校を襲った。職員室の床に落ちたリモコンをなんとか探し出しテレビのスイッチを入れると、10分後に高さ約6mの津波が到達するという大津波警報が発表された。
中浜小学校では津波の浸水域にあるという危機感を持ち、日頃から防災についての話し合いが重ねられ、避難訓練が行われていた。3月9日に発生した地震を受け、大震災前日にも避難方法と避難先は津波到達予想時間で判断するといった避難マニュアルの再確認が行われていたのだという。最短の指定避難場所まで子どもの足で歩いて20分。混乱した状況の中、垂直避難しかないと校長が判断を下し、校舎にとどまるという重い決断がなされた。
岩﨑さんの案内で2階の資料室へ。屋上へ続く階段はこの部屋の中にあった。のぼったら最後、生き延びて降りるしかないと覚悟を決めた階段は思った以上に狭く急だ。
あの日、校舎よりはるかに高い第3波と第4波が見えた時、校長は思わず「崩れてくれ」と心の中で祈った。それらの波は引き潮とぶつかり、沖合で崩れ落ち、奇跡的に屋上への到達を免れたという。過去の水害経験を踏まえ、2mかさ上げされた敷地が結果、ぎりぎりのところで命を守ることにつながった。いざという時のために準備していた非常用毛布が発見されると、防災頭巾と共に氷点下まで気温が下がった屋根裏倉庫で子どもたちの体を温めた。また、海の方角だけが見える構造が幸いし、子どもたちは過酷な光景を目にすることはなかったという。「校舎に命を救われました」と、岩﨑さん。
懐中電灯の明かりの下、一枚の毛布をふたりで分け合った子どもたち。絶えず続く余震と寒さに耐えながら、互いに励まし合い、不安な一夜が明けた。
翌朝、上空を飛来する自衛隊のヘリコプターに子どもたちが手を振り、90人全員が無事救助されたのである。
「どうしてもという場合は垂直避難もあると、前もって相談をしていました。あの日、校長が垂直避難を決めた時、どうすべきかということを話さずとも職員が皆、理解していたことも大きいと思います」と、岩﨑さんは話す。だが、その判断が果たして本当に正しかったのか未だ考え続けているが、わからないと正直な思いも口にした。
「住んでいる場所により遭遇する災害は異なります。あの日、きっと誰もが最善の努力をしようと行動していたでしょう。避難の選択が正しかったということではなく、それぞれの場所での課題、今の自分に出来ることはなんだろうと、日頃から防災について考えることが大切だと思うのです。中浜小学校がその機会を与える場所になってくれたらと思います」
90人全員の命を守ったいくつもの偶然の重なり。それらは、あくまで日頃の備えの積み重ねの上にもたらされたものなのだろう。校舎の中で一番被害の少なかった音楽室には、当時の在校児童全員で制作された虹の横断幕が掲げられている。この日、校舎の上空に本物の虹が架かっていた。