取材・文=川元茂(編集部)
写真=池上勇人
津波とその後の大規模火災による死者1152名(関連死含む)、行方不明者214名。『気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館』は、震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける「目に見える証」として、2019年3月に開館した。水産高校として100年以上の歴史を持つ気仙沼向洋高校の旧校舎を、被災当時のまま保存し、展示施設を併設。
館長の佐藤克美さんは「いま気仙沼で震災当時のありのままが残っている施設はここしかありません。あの津波によって校舎がこうなったという事実をストレートに伝えて、津波の怖さを知り、防災について考えてほしいと思います」と言う。
「家、流れた」「ここも危ないぞ。上へ!」。入館後すぐに通された映像シアターでは、悲痛な声が流れる。市内各地区の映像は、市民から提供されたものが多く、生々しく、津波の怖さをまざまざと見せつける。「あの日、気仙沼で何があったのか」を。
震災遺構である校舎に足を踏み入れると、教室には机や椅子、本、什器、コンクリートなどが散乱して足の踏み場もない。3階には流されてきた車がひっくり返ったまま置かれていて、窓からの景色とのギャップに驚かされる。
さらに高さ12mの4階には、冷凍工場の激突跡が残る。津波で流された冷凍工場は、正面衝突は免れたものの、4階ベランダに激突、折れ曲がった。室内に散らばるスポンジは壁材の一部。
いま窓の向こうには、最近できたばかりのパークゴルフ場が広がるが、この高さまで津波が来たことに改めて衝撃を覚える。最終的に津波が到達したのは4階の床から25cmの地点までだったという。
あの日、気仙沼向洋高校には170名ほどの生徒がいた。プレハブ校舎にいた生徒たちは揺れが大きかったためグラウンドに集合。本来は屋上へ垂直避難する計画だったが、工事中であることと校内に重要書類があったため校舎に立ち入れず、引率の先生と近くの寺に向かった。
しかしここも危ないと判断し、高台にある階上中学校へ。移動距離は約2㎞。到着したのは地震発生から45分後のことだった。
一方、校舎に残った45名の教員と工事関係者たちは、屋上に避難。幸い全員無事だった。海に近いという立地もあり、日頃から防災意識が高かったことが功を奏した。
「東日本大震災に限らず、今後起きるであろう災害の備えをしてほしい。私たちができなかったことを次につなげるために、この場所が必要だと思う」とは佐藤館長。
遺構を後にし、伝承館に戻る。講話室では再び映像が流れ、被災者の想いが語られる。そのうちの1本、階上中の卒業生代表・梶原雄太さんの答辞に胸を打たれた。
2011年3月22日、まだ避難者がひしめく体育館で中学3年生の彼が語った言葉に、10年の歳月を経た今でも勇気づけられる。一部引用させていただく。
「生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかねばなりません。命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの、わたくしたちの使命です」
津波の爪痕をそのままに残し、震災の記憶や教訓を多角的に伝える『気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館』。10年経った今こそ訪れたい場所だ。