Kappo 仙台闊歩

CULTURE 2020.05.20

【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第3回 前代未聞の人事政策 後編

TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智

初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。

PROFILE

菅野正道(かんのまさみち)

郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。

適材適所

(前編はこちら

それでは、政宗の側近と言える家臣は、どのような武士たちだったのだろうか?

政宗が若い頃、米沢城を拠点に盛んに軍事行動を行っていた時期は、主として40~60歳代のベテランの家臣や親族が側近となっていた。鮎貝日傾斎(あゆかいじっけいさい)・片倉意休斎(かたくらいきゅうさい)・桑折点了斎(こおりてんりょうさい)・小梁川泥蟠斎(こばやかわでいばんさい)、あるいは大叔父の伊達鉄斎(てっさい)や乳母の義父である増田我即斎(ますだがそくさい)らである。こうした、よほど伊達氏の歴史に詳しくないと知ることがない武将たちが若き政宗の領土拡張をその傍らで支えていたのである。

余談であるが、ここで名前を挙げた長老たちの何人かは、大河ドラマ「独眼竜政宗」でも登場していた。このドラマ、作品として優れていただけでなく、実は制作陣がしっかりと伊達氏の歴史を研究した上で作られていたことがはっきりと確認できる。

その後、政宗が長じて、豊臣秀吉に従い、当面の政治課題が領国経営や対豊臣、対徳川という外交へスライドすると、側近の顔ぶれは大きく変わっていく。

そうした中で、仙台に城を築いて以降、政宗の側近No.1の地位に就くのが茂庭石見綱元(もにわいわみつなもと)である。政宗より18歳年上の綱元は、政宗の命を受け、担当家臣に実行させる役目を担った。綱元がこのような役割を果たしたのは、政宗が30~50歳代の頃で、ちょうど仙台城を築き、城下町を作り、領地の経営を本格的に進めていた時期であった。仙台藩を作り上げる上で最も功績があった政宗の家臣は、茂庭綱元と言っても過言ではない。

茂庭綱元をトップに、初期の仙台藩政を重職として担った人材には一つの特徴がある。それは、彼らの相当数が政宗によって抜擢された者であったこと、そして禄の高さが役職の重要性とリンクしていないということである。

仙台藩では家老のことを「奉行」と称したが、政宗が奉行に任命した家臣には茂庭良元(綱元の嫡子)のように一万石近い禄を有する者もいたが、主体は遠藤玄信(はるのぶ)・大条実頼(おおえださねより)・鈴木元信・山岡重長など二千石から五千石の者たちであった。仙台藩には、政宗の親族を含めて一万石以上の禄を有する家臣は約10家あった。他藩では、家老は家臣の中でも禄が最も高い家柄から選任されるのが普通であったが、政宗は家柄や禄の高下ではなく、能力や適性に応じて藩の役職に就けたのである。政宗のこの方針は、以後、幕末まで仙台藩の基本方針として堅持されることになった。

人材の確保

こうした適材適所を旨とし、時には抜擢を伴う政宗の人事政策は、一方では高禄の重臣や古くから伊達氏に従ってきた譜代の家臣に不満を抱かせる危険性を持っていた。

もう一つ、家臣団の不満が爆発する危機があった。政宗は最大で一二〇万石以上あった領地を豊臣秀吉によって半分の六〇万石に減らされるが、その際に原則として家臣を減らすことはしなかった。家臣の禄を一律三分の一に減らしながらも家臣団の維持を図ったのである。当然、禄を減らされた家臣たちには大きな不満があったものと推測される。

この危機が表面化しなかった一つの理由に、政宗に対する家臣たちの信望があったのは間違いないであろう。ただ政宗はそれに甘んじず、新田開発という手法で家臣団の維持を図った。それは、家臣に対して開発可能な湿地を与え、自らの力で新田を切り開けば、それを禄に加えるという施策であった。大規模に新田を開発し禄を増やせば、藩内における地位の向上にもつながる。政宗は巧妙に個々の向上心をくすぐることにより、家臣団の維持を達成しながら藩内の農業生産を上げるという、一石二鳥に成功したのである。

同時に政宗は、従来の家臣団を維持するだけでなく、それをさらに拡大させようとした。
取りつぶしになった大名の家臣などを大量に新規雇用した。政宗の人材募集は、奥羽だけにとどまらず、広く全国に及んだ。北上川改修を担当したことで著名な川村孫兵衛は長門国(山口県)の出身であり、山林育成や財政関係を担当した和田因幡は大和国(奈良県)の浪人だった。

石高が半分になったにもかかわらず、家臣の維持を図るだけでなく大増員をするという前代未聞の人事政策を政宗は採った。これによって仙台藩は、武士身分の家臣四千家以上、足軽や職人などの下級家臣三千家以上に及ぶ全国最大の家臣団を持つことになった。その最大動員兵力は推定三万数千人。一万石あたり300人というのが当時の平均的な動員兵力であるので、仙台藩は平均の二倍以上も多い兵力を手中にしたのであった。しかし、政宗はそれを軍事的に用いようとしたのではなく、新田開発などの国土開発・領国整備にふり向けたのである。米どころ宮城の地盤は、政宗のこうした人事政策の上に成り立ったのである。

戦乱が続く若い時も、藩主として国づくりに励む日々も、人材を何よりの財産と考え、家臣を適材適所に配することができたこと、これが政宗の大きな才能だったと言って良いだろう。

(第3回 前代未聞の人事政策 おわり)

菅野正道さんはKappo本誌にて、宮城の食材とその歴史をたどった「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。

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