TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智
初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。
郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。
政宗の個性によって作り上げられた「伊達文化」に関連するとされる複数の文化遺産が、平成28年に文化庁によって「政宗が育んだ“伊達”な文化」の名で「日本遺産」に指定された。宮城県教育委員会は、この「“伊達”な文化」を次のように説明している。
(前略)上方に負けない気概で自らの“”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。(後略)(「政宗が育んだ“伊達”な文化」公式ウェブサイトより)
実のところ、省略した部分を含めて、この説明は突っ込みどころが満載だし、日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」の構成要素には、この説明とはどう考えても合致しない文化遺産が少なからず含まれ、やみ鍋のような安易さを感じざるを得ない。 政宗が、当時の武将としては一頭地を抜いた文化人であることは間違いないが、政宗が指向した文化は仙台の地で独自の発展を遂げ、そして後世に受け継がれたのだろうか?
例えば、仙台城下のなかで「伊達文化」をイメージさせる絢爛豪華な建築は、政宗が作った仙台城と大崎八幡宮、そして政宗没後にできた瑞鳳殿と東照宮くらい。これで「華開かせた」は過大評価であろう。「海外の文化に触発された国際性」と言っても、それが見られるのは、政宗の遺品のほかはいくらもなく、仙台藩の文化を特色づけるほどの広がりを見せたとはとても言えない。このように「政宗が育んだ“伊達”な文化」の説明は、実態に即したものと評価することはできない。
よく、「仙台は伊達藩の伝統から茶道などが盛ん」と言われることがある。しかし、総務省の社会生活基本調査(二〇一六年)によれば、人口一〇〇人当たりの茶道愛好者は、全国平均一・六人のところ宮城県は一・二人にすぎない。能楽堂がないことも含めると、政宗が好んだ伝統文化が、この地域に深く根差していると言うのは難しい。
「伊達文化」は魅力的な言葉であるが、このように実は根拠のない「おまじない」のようなものである。信じる人は信じているが、冷静に客観的に調べると実態がない幻想のようなものなのだ。
伊達政宗が文学や芸能を幅広く愛好していたことは広く知られている。政宗の和歌を大変に優れたものと評価する論も少なくない。
しかし、日本文学の研究者の意見はどうも違うようだ。故・金沢規雄氏(宮城教育大学名誉教授)は「歴代の仙台藩主の中でも和歌に限定すれば、吉村(五代藩主)、重村(七代藩主)が歌人として優れていた」といい(『伊達政宗—文化と遺産』一九八七年)、綿抜豊昭氏(筑波大学大学院教授)は「政宗の和歌を名歌とするのは難しいように思われる」と評している(仙台・江戸学叢書11『政宗の文芸』二〇〇八年)。
ただ、こうした評価は、決して政宗の文学に対する素養や作品のレベルが低いと言っているのではないことには注意が必要である。政宗の和歌作品には、「本歌取」と言われる、古典作品に範を求めてそれをアレンジしたものが少なからず存在する。それは剽窃ではなく、和歌の創作活動の一分野であり、古典に対する幅広い知識と、相応の技術があって成し遂げられるものである。政宗の和歌は、一流とは言えないかもしれないが、当時の武士の中ではやはりトップクラスにあり、公家や僧といった一流の文化人と交流しても恥ずかしくないレベルにあったことは間違いない。
さらに政宗は、和歌のみならず連歌・狂歌・漢詩・散文など幅広い分野に通じ、作品を残した。日常的に古典に親しみ、交遊のツールとし、折にふれて歌を詠む。政宗にとって文学は日常生活そのものだったのかもしれない。
また、政宗は能や茶の湯、香などの芸能にも関心が高かった、同じような意味で、超一流とは言えないが、文学と同様に幅広い知識を有し、知己や家族、家臣と楽しんだ。政宗は様々な分野の文学や芸能をトータルとして身につけ、個別のジャンルでは超一流、一流とは言えなくても、どれも人並み優れたレベルにある。政宗を評価すべきは、ある分野に優れている、というのではなく、幅広い総合的な教養を自家薬籠中にした点にある。
日本遺産「“伊達”な文化」は「意表を突く粋な斬新さ」を政宗の個性と評している。たしかに、朝鮮出兵時に京の耳目を驚かせるような、派手で奇抜な軍装の行列を政宗が演出したことはよく知られている。政宗の遺品として有名な山形文様陣羽織なども、当時の流行にのった斬新さを代表するものと言えるが、政宗の真価はそこにあるのではない。
政宗が国元に作った、彼の文化指向を具現化したと言える仙台城や大崎八幡宮、そして松島の瑞巌寺は、豪華絢爛あるいは壮大であるが、「斬新」とか「奇抜」といったものではない。政宗が好んだ文学や芸能も同様である。政宗の作風や好みは、流行を取り入れながらも、伝統性や古典を踏まえたオーソドックスなものが多いことがなぜか見過ごされている。
こうして見ると、政宗は当時の流行を受容し追いかけながらも、実はその文化指向の基本は伝統的なものにあったと考えざるを得ない。政宗が仙台城に造営した本丸大広間が、室町文化の伝統性と桃山文化の革新性を兼ね備えたものであることは、この連載の初回に指摘したとおりである。
下剋上が激しかった戦国時代において、伊達家は鎌倉時代以来の武家の名門としての地位を保ち続けた家柄である。戦国の動乱の中でも歴代の当主は和歌をたしなみ、京の連歌や蹴鞠の達人たちと交流をもった。
政宗も幼少時に名僧・虎哉の教育を受け、学問だけでなく、文学や芸能などさまざまな文化的素養を身につけさせられたはずである。政宗の真骨頂は、「斬新」や「奇抜」ではなく、伝統性と革新性をあわせ持った点にある。政宗はまさに温故知新の人と言うべきであろう。
実は城下に残された建築にも、政宗の温故知新の意識が残されている。城下の西端に造営された絢爛豪華な大崎八幡宮の本殿内陣は室町文化の色濃い水墨画で飾られている。そして大崎八幡宮と同時に政宗は、古代以来の国分寺に素木造の雄渾な薬師堂を城下東端に造営した。城下の東西を守護する二つの寺社は、政宗の温故知新を具現化したものなのである。
菅野正道さんはKappo本誌にて、宮城の食材とその歴史をたどった「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。
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