Kappo 仙台闊歩

CULTURE 2020.07.07

【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第5回 内なる繁栄を求めて

TEXT=菅野正道
PHOTO=菊地淳智

初代仙台藩主・伊達政宗生誕450年を記念し、KappoVol.87からVol.92で郷土史家・菅野正道さんが集中連載をしていた「伊達政宗の目指したもの」。編集部あてに再録や書籍化の声が多く寄せられた人気連載です。第1回目からのすべての文章を、WEBにて全文公開いたします。

PROFILE

菅野正道(かんのまさみち)

郷土史家。仙台市博物館職員、仙台市史編さん室長を経て、現在はフリーで郷土の歴史を研究している。

POINT

伊達政宗は天下を目指さなかった…。では、政宗はどのようなビジョンを持って領国経営や家臣団統制といった内政に取り組んだのか。手あかにまみれた説はひとまず傍らによけて、政宗の取り組みを再検証したい。

交通網の整備

政宗が取り組んだ内政のうち、家臣団統制や城下町建設については、すでに以前の回で紹介してきた。そこで見えてくる基本方針は、軍事が優先されていないこと、利便性の追求、そして人的資源の重視、といった点である。この基本方針は、仙台城や城下町の第一期整備が一段落した後の慶長一〇(一六〇五)年前後から本格的に始動する領国整備のなかでも、やはり堅持されている。

 利便性の追求で言えば、交通網の整備が直結する分野である。まず着手されたのは、藩内を南北に縦断する奥州街道の整備である。仙台城下以南の奥州街道の路線を確定させ、中田や長町(いずれも仙台市太白区)などの宿場町が順次整備されていった。その後、大坂の陣が終わった後に仙台城下以北の街道整備が進行し、吉岡(大和町)、富谷新町(富谷市)、七北田(仙台市泉区)などの宿場町が次々に整備されていった。同じ頃には、奥州街道に接続する藩内の主要街道(脇街道)の整備も進み、街道整備に着手して約20年、政宗の晩年には、藩内の主要な街道や宿場町のほとんどが完成している。

 この街道整備は、宿場町の設置や路面の整備だけでなく、ルートの変更を伴うものであった。近世史研究者の千葉正樹氏は、奥州街道の整備は大きく蛇行していた道筋を直線状に改めていったもので、その結果として仙台藩領を北端から南端まで縦断するのに、以前は5日程度を要していたのが、約1日分は行程が短縮された、と評価している。

 川を渡る橋にしても、例えば仙台城下の入口となる現在の宮沢橋付近に広瀬川を渡る橋が設けられ、政宗晩年の居所である若林城南方の広瀬川にも橋が架けられたという。

 道路の直線化や橋の建設は、自軍の移動を迅速にするという利点がある一方で、敵の進入も容易にするという側面もある。しかし、奥州街道の整備は、そうした軍事的な配慮よりも、まずは領内における移動時間の短縮が考慮されたと考えるべきであろう。

水運のネットワーク

車両の発達が遅れた日本では、物資の大量輸送は水運を用いるのが有利であった。政宗も北上川の改修とその河口・石巻の港湾整備を一体として行った。これによって石巻は後に東北地方太平洋側最大の港町に発展する。

 ほかにも、阿武隈川河口の荒浜(亘理町)と名取川河口の閖上(名取市)を結ぶ木引堀を開削し、閖上から名取川、広瀬川を遡る「水の道」と接続させて、阿武隈川や白石川流域から木材などを城下建設の資材として搬入するのに役立てている。今も仙台に残る舟丁の地名は、かつての「水の道」の終点近くに位置し、船の運航に関わった人々の居住地であったことに由来する。

 さらにこの舟丁近くで広瀬川から分流する七郷堀は、若林城やその城下の建設に際して、運河としての機能を担った可能性がある。若林城建設関連の資料に、「舟だまり」「舟入り」といった舟運関係施設の記載が確認でき、また若林区文化センター付近で行われた発掘調査では、七郷堀の旧流路に接した船着き場のような施設の痕跡が見つかっている。政宗の城下町整備、交通網整備のなかで、水運のネットワーク構築は最重要課題の一つとして取り組まれたのであった。

新田開発

政宗が重要施策とした水運によって運ばれた最重要物資が米である。

 政宗はその領地の石高規模からすると、非常識なくらいに多くの家臣を抱えたことは以前に紹介したが、その家臣団を維持する方策が新田開発であった。希望する藩士に低湿地を与えて開墾させ、新たに田となった土地は家臣たちの知行地となり、その規模が大きくなるほど、開発者の収入は増加し、藩内でのステータスもアップする…。自助努力によって幾つものメリットを手中にできるという、向上心をくすぐる巧妙な仕掛けであった。結果的に藩士による新田開発が活発に行われ、公称六〇万石と評価された仙台藩の農業生産高は、政宗没後約60年後には一〇〇万石と幕府に報告された。ただ、実際の生産高はこれにとどまらず、実は一五〇万石から二〇〇万石に達していたと推測される。

 こうした農業生産の大半を占めたのが、いうまでもなく米であった。藩内で消費しきれない大量の米が、石巻を出発点とする水運ルートを用いて江戸に運ばれ、仙台藩の大きな収入になった。その量は、江戸時代半ばで年平均二〇万石。現在の単位に置き換えると、3万トンに達していた。この量は、おそらく江戸に住む100万人と言われる人々が年間に消費する米の約1割に相当する、最大のシェアを誇る産地であった。もちろん、政宗在世時にはここまでの展開には至っていないが、現在に至る「米どころ」宮城県の礎が政宗の政策に端を発しているのは疑いない歴史的事実である。そしてそれは単なる、農業生産の向上策だけにとどまらず、人的資源を重視し、維持するという政宗の基本理念にも深く関係していることを評価しておきたい。

産業育成と人的資源

政宗が人的資源を産業育成や領内整備に有効に活用した事例は幾つも指摘することができる。具体的な事例を列挙すれば、建築面では、城郭の石垣を構築するための石工は大坂周辺、城や神社仏閣の豪壮な建築を造るための大工は紀伊(和歌山県)からそれぞれ招聘してきた。

 物産で言えば、京都や大坂から技術者を招いた筆や、政宗の親友であった柳生宗矩の紹介で当時最先端の技法を誇った大和国(奈良県)から技術者を迎えた酒造などがある。また、大坂の道明寺の技術を導入した糒(蒸した米を乾燥させた保存・携帯食品)や、政宗の旧領である伊達郡茂庭(福島市)から技術者を移住させたことに始まる柳生(仙台市太白区)の和紙などは、その品質の良さから、将軍や幕府関係者への献上品としても用いられるほどに成長した産物である。

 ほかにも、長門(山口県)や江戸周辺へ関係者を派遣して技術の移入を図った製塩や、摂津(大阪府)などへ農民を派遣して技術を習得させた炭焼きなど、人的資源を活用した産業振興は多岐に及んでいる。

 仙台藩主・政宗が目指したのは、軍事的、政治的にその勢力を拡大させることよりも、領内のインフラを整備し、産業の振興を図り、内なる繁栄を実現することにあった。「河水千年 民安国泰」。これは仙台城と町を結ぶ橋の擬宝珠に政宗が刻ませた文の一節である。とこしえに流れるであろう広瀬川に、人々が安んじて暮らす泰(=豊か)な国を実現することを、政宗は誓っていたのである。

第1回 仙台城にこめられた政宗の真意

第2回 常識はずれの城下町づくり

第3回 前代未聞の人事政策

第4回 虚像だった天下への野望

菅野正道さんはKappo本誌にて、宮城の食材とその歴史をたどった「みやぎ食材歴史紀行」を連載中。

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